ふさぎガチ

オギェッセイ#07 ラップバトル

2022-06-01

ある日、事務所で働いていると内線が入った。同じビルの上階に住んでいる社長から内線だった。手伝って欲しい事があるからと言われてエレベーターで上がって行き、玄関口から声をかけると、奥の方から『棚を運びたいから入ってきて』と社長の声が返ってきた。お香のような甘い匂いがする中、声のする方へ部屋を進み角を曲がると、大きな寝室で肩に手を回され、『ちょっと奥にあるから』と部屋に入るよう促された。社長は酒の匂いはしないが酩酊しているようだった。

部屋へ入り数歩進むと、すぐベッドへ押し倒され、両腕を掴まれた。
自分の「ごめんなさい」と「無理です」の間に、社長の『なんでよ』と『いいじゃない』が何度も差し込まれた。
地獄のラップバトルは社長の『わかったわよ』というラストリリックで幕を閉じた。

気が動転したまま事務所へ戻ったが、同じフロアで働いている彼らが誰の味方かもわからないし、それで騒いで仕事がなくなるのも嫌だった。
社長の彼氏が同じフロアで働いているので、知られない方が良いと思ったし、平静を装って仕事を続けた。
しばらくして社長も平然と事務所へ戻ってきたが、何もなかったような振る舞いだった。
だから自分も、何もなかったと思うようにした。

 

#06 ジョーキョーズハイより抜粋

「これなに?」
と聞くと、
『"何"とか聞かないの』
と言われた事を思い出す。深く聞かなくて良かったとも思う。

 

こんな事があった人でも、当時の自分に色々と世話をしてくれた人で、込み入った話もしていたので、社長の部屋で起きた件を相談した。
返ってきた言葉は、
『あ~、まぁね。だって"色々教えときました"って俺が言ったもん』
だった。

反射的に、
「え~、マジですか~。やめてくださいよ~」
と笑って返した。

色々相談に乗って貰ったな。
好意に近い物を持った事もあったな。
頼りにしてる人だったな。
勝手に差し出されたんだな。

働き始めて1年ほど経った頃、社長は週末の深夜に発作で急に亡くなった。
心臓だったか、脳だったか、覚えていない。
『健康診断を久しぶりに受けた後、結果を中々聞きに行かなかった矢先…』
と誰かが言っていた。

自分はただ、
「そうなんだ」
と思った。

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